俺と物を書くということ

いつごろからかはっきり思い出せないほどの昔から
星新一ショートショートを読んでいた。

一時期は近くの図書館にあった物を全て読みつくして
新刊が出たら店員に怒られないように少しずつ数回に分けて立ち読みし
それでも飽き足らないときは読んだ物であっても二度三度と読み返したりしていた。



おかげで「長文で説明するのは簡単だが短文でわかりやすく説明するのは難しい」ことや
「難しい言葉や新しい物事を持ち出さなくても、日常使っている言葉や物事からでも新しい発見はある」とか
「考え方や視点を少し変えれば新しい驚きに出会える」ことを覚えたけれども
自分で物を書こう!とは全く思わなくなった。

何故かというと、星新一以外の作品(特にショートショート)を読んだ時に
期待していた面白さとの落差にガッカリし、それと同時に
自分には自分が心の底から面白い!と思う作品を到底書けはしないだろうと思い知ったからだと思う。



時々こうやって何か書くときも「自分が書く物は書くだけの価値があるんだろうか」とか
「読んだ人が昔の自分のように期待感との差を感じで軽蔑したような感情を持たないだろうか」と考え
これは練りに練った物であり誰がなんと言おうが面白い!と自信に満ち溢れている時や
全然面白くないし不愉快かもしれないけど自分が体験した時の何かを形に残しておきたい!
と熱望した時でなければ物を書くに値しないのでは?と悩んだりする。



最近、価値があまり無いようなことでも後から読めば何か発見があるかもしれない、とか
書くだけでも自分の書く力が伸びるし、また伸ばすためにも何故書こうとしたのかを推考して
「書く価値のある文」にしていくのも面白いなと考えるようになったけれども
「あの頃の面白い物を読みたくて仕方が無かった自分」が読んで満足するような物を書けるのは
まだまだ先のような気がしてならない。



そういえばこの間、宇宙科学の「超ひも理論」の本を読んで
「今という1点においては自分は3次元的存在だけど、産まれてから死ぬまでの時間を考えると
 4次元的な存在とも言えるのかも(過去から未来へ流れていくから)」とか考えて
それをどう上手く文して表現できるかで苦悩していました。
苦悩している間に忘れてしまいそうなので書いておいて、また考えることにします。

こういうことをズバッと解決できるようになれるかどうかはさておいて。